今も京都などでみられる享保雛の特徴とは?|雛人形・五月人形・浮世人形なら真多呂人形~大正8年創業~

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今も京都などでみられる享保雛の特徴とは?

享保雛(きょうほびな)の歴史

享保雛(きょうほびな)は、江戸時代の中頃である1716年から1736年頃の享保年間に、
京都で生まれて各地に広まっていったお雛様です。
この享保時代は、バブル期のように大変に豪華絢爛な時代だったため、
お雛様も「寛永雛」や「元禄雛」を基にして豪華で高級なものを作っていました。
大きさも、はじめは寛永雛と同じようなサイズの、
13センチから18センチほどのものでしたが、どんどん大きな物になっていき、
45センチから60センチ位あるものまで作られるようになったのです。
しかし、その後にバブルがはじけて、不況下での緊縮財政の影響もあり、
八代将軍となった徳川吉宗の命による贅沢禁止令を受けて、
雛人形にも寸法の制限が設けられ、小ぶりな物が多く作られるようになっていきました。
享保雛の特徴

享保雛の特徴は、顔の形は面長で、切れ長な目と少し開けた口、
細くて白い手などが挙げられます。
また、女雛は赤い袴を着て、中には綿を入れて膨らませた形になっています。
これは、公家の正装が朝鮮半島から流入したこともあり、
朝鮮のしきたりとして、女性の正式な座り方が片膝を立てる形だったため、
これを隠すために、あえて綿を入れて膨らませた雛人形にしたようです。
華やかな時代を表すように、豪華な金襴なども装束に使用されており、
男雛は束帯風で両袖を張った形で太刀を差して笏(しゃく)を手にして、
女雛は五衣(いつつぎぬ)、唐衣(からころも)姿に天冠といった点も、
人々が贅を好んだ時代に生まれた享保雛の特徴といえるでしょう。
享保雛は、明治時代まで製作されていました。

今も京都ほか各地でみられる享保雛

享保雛は京都で作られ、徐々に巨大化しながら全国へと広がっていきました。
舘町の酒造業を営んでいた旧家の大井家、材木商だった中横町の武田家、
登米市の佐沼亘理家、毛呂山町など、
当時、特注で作られた豪華な享保雛は今でも大切に保管され、
現在ではひなまつりの時期に見ることができます。